空襲警報のサイレン
空襲警報のサイレンは、城山に設置されたスピーカーから流れるのだが、最初、カラカラという音に始まり警報が鳴り出す。当時、延岡国民学校は今の市役所の場所にあったので、そのカラカラが鳴り出すと、すぐに帰宅準備にかかる。それからの轟音はすさまじく、耳をつんざくどころではなかった。サイレンは市中に届かないといけないから、当然な音量なのだ。が、あの大音響は今も忘れられない。
玄米をつく母
配給の米は玄米だった。玄米はそのままでは食べづらいので、母は暇をみて、一升瓶に入れて、棒でつついてカスを出していた。
終戦の日に引っ越し
昭和20年8月15日
大武町から北小路へ引っ越し。鍋、ヤカン、布団、着るもの少し。これがわが家の家財道具のすべてであった。山下通りにきた時、たくさんの人がラジオを聞いていたが、これが天皇陛下の玉音放送であることを後で知った。
焼け落ちた我が家の前で
昭和20年6月30日
焼夷弾攻撃から一夜が明けて、わが家に戻ると、何もかも焼けていた。裏にあった醤油工場の倉庫に積まれた大豆が半焼けで異様な匂いを発していた。
終戦直後、蚤・しらみ大量発生
昭和20年
朝起きると、まず毛布を静かにめくって、蚤退治が始まる。ピョンピョン飛ぶ蚤を見つけては、一匹一匹つぶしていく。これが一日の始まりであった。しらみは、シャツや布団の縫い目に沿って、行列をつくっていたのだから、今思うと悪夢でしかない。
駐留兵に追いかけられた姉
昭和20年
ある日、姉が青い顔をして家に駆け込んできた。その後を追うように駐留兵が玄関に仁王立ち。とっさの出来事だったので、少年の私はただ恐怖で座り込んだままだった。
ある日、姉が青い顔をして家に駆け込んできた。その後を追うように駐留兵が玄関に仁王立ち。とっさの出来事だったので、少年の私はただ恐怖で座り込んだままだった。
安田善吉さん
昭和9年(1934)、宮崎県延岡市北町生まれ。
延岡小、岡富中、恒富高(現・延岡高)、日本大学卒。小学生のころ少女歌劇のレビューを見て舞台に魅了された。20歳のころ、映画雑誌「近代映画」で美空ひばり、石原裕次郎らスターの似顔絵を描く。
雑誌などでレタリング専門家として働く傍ら、宝塚歌劇団の月刊誌「宝塚GRAPH」に宝塚スターの似顔絵とインタビュー記事を連載、現在まで半世紀以上続いている。東京都在住。