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戦争をめぐる旅『月光の響き5』

戦争をめぐる旅月光の響き

翌日、瀬良垣公民館で、私たちは予想もしなかった人と出会った。

當山安昭(とうやま・あんしょう)。当時18歳。
山倉兼蔵の遺体を見つけ、埋葬したという。
素朴な人柄の當山はとつとつと、半世紀前の「あの日」のことを昨日のことのように語り始めた。

當山安昭の話~家族の元に帰れて良かった

山倉さんが戦死したのは5月23日ぐらいです。時間は午後5時ごろで、雨が降っていたと思います。
私たちが避難小屋から谷間に移動する時に米兵が発砲してきました。
私たちが見つかったのだと思いましたがそうではなく、兵隊の服を着て恩納岳からの通り道を上ってきた山倉さんを、待ち伏せしていた米兵が狙っていたのです。

頭を撃たれ、鉄兜を貫通していました。丸めて背負っていた毛布は血だらけでした。
日が暮れてから、私の兄が中心になって4人で遺体を運び、グラマンが爆弾を落としてできた深さ約2メートルの穴に葬りました。
私たちもいつ殺されるかわからないので仮埋葬です。

山倉さんが亡くなって4日後、アメリカ軍が掃討戦で一斉攻撃してきました。その時に、ほとんどの兵隊さんが亡くなりました。
撃たれた人が死ぬ 前に「班長~」と叫んでいたのを思い出します。昨日のことのようです。

私たちが葬ったのは山倉さんだけです。自分たちも危なかったので、ほかの人たちは埋葬していません。

戦争が終わってしばらくして、山にそのまま葬っているのは気の毒だから近くに安置しました。仲嶺先生に「葬っている方がいます」と話をしたら「家族の元に送ろうではないか」ということになったのです。

山倉さんは家族の元に帰れて本当に良かった。

「恩納村民の戦時物語」より

沖縄県恩納村遺族会は平成15年(2003)8月、村民の沖縄戦の体験を集めて、後世に語り継ぐために「恩納村民の戦時物語」という大判の本を出版した。

編集委員会の代表世話人を務めたのが、沖縄で戦死した山倉兼蔵の足取りをたどる私たちの水先案内人をして下さった當眞嗣長(とうま・しちょう)さんだった。
この中に恩納村の遺骨収集の状況と併せて私が書いた記事も収録されている。一部を引用させていただく。

恩納村の遺骨収集

九死に一生を得て戦禍を生き延びた人達は、各地の収容所で何時の日か故郷に帰る日を首を長くして待っていた。そのような10月の某日、米軍政府は、各地の収容所住民に対し、郷里へ戻ることを許可し、帰村準備を命令した。
石川収容所においては、10月17日、恩納村民代表者会議を開き、帰村準備のための先遣隊を組織して隊長に津嘉山朝信氏を選び隊員6名をつけて帰村準備に当たらせた。
そのうちに村内各字も先発隊を組織して住民の受け入れ準備に当たった。昭和20年の年末までに帰村した字民と昭和21年1月に帰村した地域もあった。

帰村当初は、集落の一地域で仮のテント小屋で共同生活を営み、共同で農作業が行われた。荒れた土地を耕し、その荒地に散在する遺骨は住民の手で収集され、各集落の一地域に集骨され、それぞれの墓に納骨された。身元不明の遺骨は、次の方法で収骨された。

当時、群島政府の指示により、一斉に各字で山野に散在する遺骨の集骨作業が実施された。収集された遺骨は各地で一ヶ所に集められ、後に識名の中央納骨所に納骨されたと言われている。その後においても、村内各地で遺骨が発見された。その都度、村役場を通じて、当時の政府に連絡して、中央納骨所に納骨された。
そのような恩納村における遺骨収集の中でも、地域の人々による手厚い埋葬により、戦後に収骨され、心ある村民の連携で無事、本土の遺族のもとへ送り届けられた遺骨もあった。

山倉兵長の遺骨・家族のもとへ帰るまでの記録

山倉兼蔵(当時34歳)・宮崎県門川町出身は、要塞建築勤務第6中隊第1小隊第四班に属し、兵長であった。沖縄での任務は飛行場建設であったが昭和20年4月1日、米軍が沖縄に上陸すると、部隊と共に恩納岳へ転戦した。同年5月23日の午後5時頃、瀬良垣の山中で米軍と遭遇し、戦死した。

銃声を聞いた地元、瀬良垣の當山安吾・安昭氏等数人が米軍が引き揚げた夕刻、現場へ行ってみると、一人の日本兵が鉄兜もろとも頭部を撃ち抜かれて倒れていた。所持品から、住所氏名が、はっきりしていたので、後々、家族のもとへ帰れるようにと埋葬することにした。戦時中の事ゆえ、墓穴を掘ることもできないので、近くに落ちた砲弾の穴に埋葬した。

戦後、各地の収容所から瀬良垣に戻った人々は、戦争で山野に散在する身元のはっきりしない遺骨の収集をおこなった。山倉兵長の遺骨は、遺体を埋葬した当時の人々によって収骨され、ダンボール箱に納められ、海岸のアダンの下に特別に安置された。
戦後の混乱も、ようやくおさまり、各市町村では、行政事務も開始された。恩納村では、毎月3日は村内の区長と学校長が役場に集まり、村常会が開かれ、役場からの伝達事項や、教育の再開と校舎建築等、その他の情報交換を行っていた。

当時、恩納小学校の校長であった仲嶺盛文先生は、同席した瀬良垣区長・當山安吾氏から山倉兵長の遺骨について知るところとなり、以後、山倉兵長の遺骨の処理についてかかわるようになる。(後略)

お互い様です

ついにたどり着いた山倉兼蔵の最期の地(恩納岳)で供養する孫の松浦真由美。そのうしろで当時、山倉を埋葬した當山安昭(左)がそっと見守っていた。

セミの鳴き声がこだまする恩納岳。ここはアメリカの軍用地になっている。
小道から少し入ったところに當山安昭が車を止めた。

「今は整地されていますが、この辺りに山倉さんは倒れていました」
松の木の根元を地元区長の親泊一元がスコップで掘り始めた。

松浦真由美は自宅から持ってきた卒塔婆を穴の中にそっと置く。線香に火をつけ、手を合わせた。
山倉兼蔵が息絶えた赤土の上に涙がこぼれた。草が静かに揺れている。

「祖父がお世話になった方とお会いでき、50年後にまた孫の私がお世話になるなんて…」
松浦がそう言うと當山は小さな声で答えた。

「お互い様です」

セミの鳴き声に交じって、山の向こう側に撃ち込まれる米軍の砲弾の音が遠雷のように響いていた。

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書いた人:坂本光三郎

坂本光三郎

宮崎県延岡市出身・在住。1983年、早稲田大学を卒業し、延岡市の夕刊デイリー新聞社に入社。編集部記者として、文化・歴史・福祉を担当。小・中学校の平和学習講師も務めている。現在、夕刊デイリー新聞社取締役(編集担当)。FMのべおか局長。

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