福岡の友人が主宰していた会の機関紙で連載記事「そして、人がいた」を開始したのは2000年1月号だった。
私の出会った人たちを紹介しようと始めた企画だが、6回目から流れが変わった。
その5年前―1995年、戦後50年の年、たて続けに起きた不思議な出来事を自分の中で整理する機会に使わせてもらったからだ。
しかし、戦後70年が過ぎても不思議な出来事は続き、今でも戦争を語り継ぐ企画に携わっている。
このシリーズは、「そして、人がいた」を大幅に加筆修正したものである。
旅のはじまり
戦後50年の1995年夏、私たち3人は不思議な旅に出た。
私は新聞記者、彼はテレビ局のディレクター、彼女はピアニスト。奇妙な取り合わせだが、気の合う親友だった。
この3人が何の巡り合わせか、「戦争」をたどる旅に出た。
20代後半から30代半ばの私たちにとっては、あまりにも重いテーマだったが、目の前に立ちふさがった厚い扉を何とか押し開けようと、体験者から話を聞き、資料をめくり、戦跡に足を運んだ。
その扉を開けてくれたのは不思議な縁だった。何か大きな力が引き合うように人と人とが結びつき、絡み合って私たちが予想していなかった出来事が次々と起きる。
旅の始まりは「誰かピアノを弾いてくれる人はいないかな?」という高校時代の同級生の一言だった。
彼は県庁職員。宮崎県が主催する終戦50周年記念事業を担当することになった。
その行事の一環で、特攻隊員が出撃前に弾いたピアノで演奏してくれる人を探しているのだという。
曲は、特攻隊員が弾いたというベートーヴェンのソナタ「月光」。
私はすぐに、宮崎県日向市に住む友人のピアニスト、松浦真由美に持ち掛けた。
即座に「やってみたい。この曲はいつか演奏したいと思っていた好きな曲」と返事があった。
その横で彼女の母、やよいが「それはいいね。じいちゃんも喜ぶだろうね」とうれしそうに言うのが聞こえた。
「えっ」と聞き返すと、やよいは自分の父親、山倉兼蔵のことを話し始めた。
34歳で出征した兼蔵
松浦やよいの父、真由美の祖父である山倉兼蔵(やまくら・かねぞう)は、明治43(1910)年2月11日、宮崎県の北部に位置し日向灘に面した門川(かどがわ)町で生まれた。
隣接する工業都市・延岡市のベンベルグ工場に勤務する会社員だったが、昭和19(1944)年3月22日に出征した。当時34歳。
妻アキノ、小学1年生の長女やよい、それに5歳の次女、3歳の長男の5人暮らし。アキノのおなかには次男がいた。(兼蔵の出征から1カ月後の昭和19年4月2日に生まれた)
身重の妻と3人の子どもを抱え、ごく普通の生活を送ってきた会社員は、昭和20年に沖縄で戦死した。
戦後、遺骨は帰ってきたが、亡くなった場所や日付はわからないという。
やよいは「今、この子が弾いているピアノは、じいちゃんの軍人恩給で買ってもらったんですよ」と言った。
そう聞いた時、松浦真由美が終戦50周年の節目のステージで、戦争にゆかりのあるピアノを弾くのは何か意味があるではないか、と感じた。そして、きっかけをつくった私にも託された何かがあるのではないか、と。
山倉兼蔵について知る必要があった。
手がかりを求め、長女やよいと妻アキノに話を聞くことにした。