手記との出会い
次に出会ったのは、黒木國雄の弟・民雄が私に託してくれた父親の肇(はじめ)のノートだった。
長男・國雄の特攻出撃を見送った直後から書き始め、昭和20(1945)年6月29日未明の延岡空襲で自宅を焼かれるまでの約1ヶ月半の期間に記されたものである。
最初は文字を読み取るのも困難で、戦争の時代を知らなければ理解できないような表現もあったが、民雄の力を借りてパソコンに打ち込んでいった。
すると次第に黒木國雄の姿が浮かび上がってきた。
くんちゃん
國雄は小さい頃から真面目で、心のやさしい子どもだった。
旧制延岡中学校時代は、学生帽を深くかぶり、肩から斜めにカバンを掛け、まるで道に線でも引いてあるかのように真っすぐに歩いて学校に通った。
祖母が入院したときは、毎朝、病院に祖母の食事を届けた。夕方、学校から帰ると家の座敷を掃除し、庭を掃いて、また病院の祖母のもとに食事を運んだ。
軍人にあこがれ、そのために懸命に勉強した。
深夜まで机に向かい、朝も早く起きて勉強。しかし、ガリ勉タイプではなく、近所の友達とよく遊び、「くんちゃん」と親しまれていた。
父親の肇(はじめ)は、長男の國雄がうまれたときから軍人に育てようと心に決めていた。昭和16(1941)年、國雄が難関の陸軍予科士官学校に合格したときは「一家一門の誉れ」と喜んだ。入校のための上京には肇も付き添って行った。
昭和16(1941)年の12月に、太平洋戦争が起きる。
肇は激励の電報を息子に送った。父親から励ましの電報を受け取ったのは全校生徒の中で國雄だけだった。
肇は毎日、國雄に励ましの手紙を書いた。
國雄も週に1回は返事を書いた。息子も父もお互いを誇りに思っていた。
最後の帰省
昭和19(1944)年9月、陸軍士官学校を卒業して陸軍少尉になった國雄は休暇で延岡に帰ってきた。
休暇も終わり、隊に帰る日のこと。弟の民雄は、延岡駅で兄を見送ったときのことをはっきりと覚えている。
「『これが最後だと思うけれども…』と言った兄は、発車のベルが鳴ると列車のデッキに立ち、『それでは行きます』と挙手の礼をしました。列車がゆっくりと動き始め、ゆるやかに右に曲がりながらも列車が走っていきます。直立不動で敬礼したままの兄の右腕がデッキから張り出し、いつまでもいつまでも見えていました」
父・肇以外の家族にとって、これが國雄との最後の別れになった。
昭和20(1945)年4月、國雄が特攻隊長になったと東京の親戚が知らせてきた。肇は家門の誉(ほまれ)と喜んだ。
1ヶ月後、國雄から電報が届く。
「キランニヲル クニオ」
肇は息子を励ましに面会へ行こうとしたが、電文の「チ」が「キ」に誤っていたため、場所がわからなかった。
2日後の5月9日、國雄から手紙が届く。鹿児島の知覧(ちらん)からだった。近くの寺で遊んでいた民雄も呼び戻され家に帰ってみると、座敷に父と母が正座して並び、その前に一通の封書があった。
父が封を切ると、中から半紙に包んだ髪の毛と遺書が出てきた。
黒木國雄の遺書
※一部、現代仮名遣いに改めました。
父上様 母上様、國雄は全く日本一の多幸者でした。
二十二年のお教え通り、明日お役に立つことができます。私が幼少の頃から憧れていた皇國軍人と成り得て、しかも死所を得せしめて戴くとは、ただただ感激のほかございません。
隊長として部下と共に必殺必沈、大君の御盾と散る覚悟です。
また、必ず散り得るものと信じております。神州に仇船(あだぶね)よこす夷(えみ)しらの 生膽(きも)とりて玉と砕けん
二十二年の過し方を顧みますと、ただただ皆様に対して感謝の念でいっぱいです。
実際楽しいものでした。また、豫科(よか)本科(ほんか)と有難き四年は我が一家にも日本の家として感謝と誇りに満ちたであったことと思います。
國雄は真に満足です。
祖母上様のことは承知しております。
突っ込むその時まで祖母様がお護りくださることと信じ、早々お目にかかれたくあります。父上様 母上様、國雄は永久に日本人として生かして戴くことができます。ご安心下さい。民雄 義雄 美智子 淳子 公子 が必ず私として、私の足らなかったことを父上様 母上様に孝養してくれることと信じます。國雄は常に皆様の中に生きております。
父上様 母上様 必ず嬉ばれることと信じます。
他に申し上げることもございません。
延岡も戦場。天孫降臨の裔としてご奮闘されんことを祈ります。
父上様 母上様のご多幸ならんことを信じ、かつ、お祈り致します。前夜 國雄拝
父上様 母上様
五人の兄弟に宛てた遺書もある。弟の民雄へはこんな励ましの言葉が書いてあった。
今後、民雄が色々のことにぶつかって困ったり、つまらなかったりする様なことがあったら、つまらぬ兄であったが、この兄を思い出せ。必ず民雄は元気を出すことができる。兄も必ずまた力を出してやる
手紙の最後に「前夜」と記されている。
すでに出撃した後だと思ったが、肇は息子が特攻隊長としてどのように出撃したのかを知りたかった。
知覧へ行くことにした。
知覧へ
遺書が届いた翌日の5月10日午前5時、肇は延岡駅を出発した。
母・ソノは國雄が好きだった饅頭を作って肇に持たせた。
列車の中で肇に「知覧へ行くんですか」と聞く人がいた。
報道部の命令で特攻隊の写真を撮りに来ていた小柳次一である。隣の席で立ったり座ったり、ずっとそわそわしている肇が気になって声をかけた。
この偶然が小柳に、あの写真を撮らせることになる。
50年後の平成7(1995)年に私が「従軍カメラマンの戦争」の中で出会うことになる写真である。