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戦争をめぐる旅『特攻隊長とその父3』

戦争をめぐる旅特攻隊長とその父

知覧に着いた黒木肇(はじめ)は、思いがけない言葉を聞いた。

「黒木隊長は、三角兵舎にいます」

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父と子の再会~肇(はじめ)の手記より

まさか、と思いながら肇は三角兵舎へ急いだ。
軍用トラックに乗せてもらい広い台地を走り、松林に囲まれた兵舎に着いた。そこで聞くと、やはり國雄はここにいるという。
このときの心境が肇の手記に記されている。

夢か現(うつつ)か幻かと思はれぬ。
当番より案内をされ兵舎に着くまでは、同じ隊の同姓同名には非ざるかと気が気でなし。
この兵舎にて待たれよ。隊長殿は明日早朝の出撃に、飛行機にて機の点検中。今に帰られるとのことなり。

この待つ間の1分間が、3時間、1日も待つ思いなり。

國雄、7時頃帰営したり。その間、今に来るか、帰るかと松林の入り口に向かうこと再度なりしに。
と見れば國雄なり。ああ会えた。
「父ちゃん。」後は無言。暫時、敬礼するのみ。
両腕に日の丸、胸に隊長の記号あり。わが子ながら悠揚たる隊長ぶりなり。

あ、國雄だ。会えてよかった。國雄に面会(あ)える事なら家内全部連れて来たらと思いしこと切なり。

こんなことになるのなら家族全員を連れて来ればよかった、と肇は思った。
延岡から持って来た酒で最後の杯を交わしながら國雄は経緯を話し始めた。

最初の出撃~機体不良で

國雄が隊長を務める第五十五振部隊は5月6日午前5時半に出撃した。
ところが途中、飛行機が故障したため國雄は引き返した。部下3人には無電の連絡がつかず、彼らはそのまま行ってしまったという。

父と再会する数時間前、國雄はノートにその気持ちを書き綴った。

今はただ一刻も早く残りの部下と突入し、隊長以下を待ちわびております3人の所に、彼らの戦果と私たちの戦果を報告して、寂しかっただろう彼らを慰めてやりたき気持ちでいっぱいです。

無念な気持ちを抱えながら新たな部下たちと数日を過ごしてきた。そして、ようやく念願が果たせるという再出撃の前日、父と突然の再会。

電報「キランニヲル」

國雄が延岡の家族へ「キランニヲル」の電報を打ったのは、知覧へ移動する途中の福岡だった。知覧に着いてすぐ國雄は、出撃前に家族が会いに来ないよう「クルナ(来るな)」と打とうとした。
しかし、私的な電報は打てないことになっており、自宅には届かなかった。
遺書も、最初の出撃直後、突入の確認をしないまま担当者が発送してしまった。

最後の夜

そうした偶然により父と子は、最後の夜を共に過ごすことになった。

町に泊まることと思いしに、早朝出撃なれば、このままこの兵舎に泊まられたしと皆々様の勧めにて、もったいなきことながら特攻隊の神々と、この三角兵舎に同宿したり。

國雄と枕を並べ、過ぎ越し方の話し積もる。
國雄、21年間のしあれど、明日早朝の出撃、身体無理あってはと
「國(くん)ちゃん、もう休もう」と寝入につきしか。

「母ちゃんは、あの手紙を見て泣きはせぬかったね」と言ったり。

「何が、母ちゃんが泣くもんね。覚悟できておる。既に陸土に採用のあの電文より任官後、ますますその決心はできておるよ。安心しなさい」

祖母上様の魂魄(こんぱく)と、母のあの強い心と共に、見事に敵艦に突撃突入、必沈してくれよ、と激励の話しをす。
國雄、安心せしか、寝入につきしごとし。これでこそ安心なり。

肇はその寝顔をじっと見ていた。
眠れないまま、肇は隊員たちが風邪をひかないように毛布を掛けて回った。

どの人もどの方も明日午前6時出撃、敵艦に突入する死を決した方々と思われず、無心に寝に着きなれし如くなるも、真の夢路は、故郷の父に母に通いおる事ならん。

せめて、私のよう父なり母なりが、この出撃前夜におはせしならばと思うなり。

肇には20代前半の若者たちが、わが子同様、いとおしかった。

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書いた人:坂本光三郎

坂本光三郎

宮崎県延岡市出身・在住。1983年、早稲田大学を卒業し、延岡市の夕刊デイリー新聞社に入社。編集部記者として、文化・歴史・福祉を担当。小・中学校の平和学習講師も務めている。現在、夕刊デイリー新聞社取締役(編集担当)。FMのべおか局長。

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